現代語訳
志摩国御座嶋由来記
 

  (訳者注)上記の作品は、明治十三年に書き写され、御座の藤沢市蔵氏が所蔵、浜島の山崎倉助氏が所管してしていたものを、昭和八年に村田昌光氏が再書写したものをもとにしている。 
 この由来記は、歴史書というより、昔から御座で言い伝えられたものを記録しただけであり、歴史的意味合いはほとんどない。「志摩町史」に記載される御座の口承は内容的にもこの書と類似している。
 尚、原文は昔風の書き方なので、現代人にわかりやすいに言葉に書きかえ、読みにくい漢字には()内に読み方を示した。



 そもそも志摩国御座村の由来を尋ねれば、地神五代の御神である彦火々出見の尊
(ひこほほでみのみこと)、竜宮の御姫の神豊玉姫の命(みこと)をめとり、浜島と塩屋の間にお住みになった。
 そこで豊玉姫の命がご懐妊になられ、すでに月が満ちて、御天神におっしゃるには、「わたしがお産に臨む時、あなた様は絶対にわたしの姿をご覧にならないで下さい」ということであったが、ある日、彦火々出見の尊がみづから御木屋の屋根を鵜の羽を用いてお葺きになった。
 その御屋根がまだ葺き終わらないのに、若宮の御誕生があった。御産の声が高く聞こえてきたので、彦日々出見の尊は思わず御木屋の内を覗かれたので、豊玉姫の命は、お産の悩みで竜の御正体を現わされた。
 その時の誕生の神をHG草葺不合の尊
(うがやふきあえずのみこと)と号(なづ)けられた。しばらくその所でお育てになったけれども、豊玉姫の命は荒々しい御正体を夫神に見られたのを恥しくお思いになり、御暇を乞い申しあけ゜、竜宮へ帰ろうと海中を遠くからながめられていると、御迎えとして、一匹の鰐が海中に現われたので、それにお乗りになって、今の御座嶋に渡り、浦中をご覧になって、「あら、なつかしや」と仰ったので、この浦中の総名を懐浦と云うのである。
 しばらくこの嶋にいて、矢文をもって御夫子が神慮を窺われた時、浜島の浦口なる小島に、お遣い役の神があって、(その神に)矢文の取り次ぎをお頼みになった。故に、この小島を矢取島と云うのである。
 その後、いつまでこの島にいても御名残がおつきにならないと言うので、元の鰐にお乗りになって、見崎の辺までお出でになって、竜宮へお還りになった。この磯の字名は小石と云う。乗り捨てられ鰐は石となって、その海中にある。これを御船島と号けて、今の漁民はこの嶋に船の櫨櫂を当てれば、その日の内にかならず災難があるとして、これを恐れている。
 その汀には東宮の御島として、門に等しい嶌がある。又、見崎の突鼻に祭る大明神は、すなわち豊玉姫の命と聞き伝えられる。漁民がこの神に詣でて魚事を祈れば、そのしるしがあるという。
 その後、人間天皇第一代の神武天皇が、さる国にて軍を出された時、御臣下の疲れを休ませようとして臨幸があり、昼は見崎明神の後ろにある「大いし」と号けられる島の辺りで、「さかい」と云う貝を叡覧なされ、夜は里に還幸されて、おやすみになった。これより御座島と号けられたという。
 又、大石と云う小島に一つの池があり、里民はこれを大井戸といい、その中に魚貝が数多くすむといわれるけれども、これを取れば忽ち祟りがあるという。
 その後、人間天皇十一代、垂仁天皇の御家の倭姫の命が、天照大神をお負いいたし、この地を廻られた時、里民が魚種を差し上げたが、倭姫の命の仰るには、大神が何処でも御鎮座あるならば、御贄を差し上げよと仰せ置かれたが、伊勢の国は度会郡、今の内宮に御鎮座有ってより、この御座島に御厨を建て、いつの頃よりか御厨を移し、この所に海辺一統すべてより御初穂を差し上げるようになった。
 又、御座島の見崎の山は世人は黒森と号けている。紀の国灘よりの廻船が目当てとしている。この山は万葉の頃には衣手山と訓じており、樹木は森々と生い繁り、鬼が住んでいる。二頭六足の鹿に乗って村落に出て、居民を悩ませていることを、人間天皇十四代仲哀天皇の御家が奏上によりお聞きになって、武内大臣の侍に命じられて退治させようと、直ちに軍を出された。
 鬼が里に出るのを待伏せして取巻けば、里の東南にある八王子の谷へ逃げ込み、南にある山上へ登っていった。この所は鹿馬の岡といっている。それより長浜という所へ逃げ込んでいったけれども、汐が満ち、行きどまりがあって、衣手山へ帰ることができなくなった。この留った所を「鬼がえし」と云っている。
 そこより鬼は引きかえし、岩井が鼻という所へ逃げて行くのを追い、射ち矢がそれて、沖の島を摺っていったので、この島を「矢取摺島」と名付けたのである。それにより、細田浜より射る矢、(すなわち)的に当ったその矢を負いながら、(鬼は)逃げ去ったが、その血の流れ落ちた所を「血曳きの磯」と云う。又は「のりの浦」とも名付けたということである。その上は「のり通り」といって、昔の往還の本道となっている。その鬼が鹿に乗って逃げて行った先を「越鹿」と昔は書いていたが、後に「越賀」と号けたと云われている。
 さて又、御座嶋領の「字細田」と「字こふがたれ」と云う所の間に、人穴と云うものがある。これはまだ人家がない時の住家であるといわれる。神武天皇御幸のときに今の村落に移ったといわれるけれども、このことは詳らかではない。
 聖が岳の道は後に作ったと云われる。又、文政の頃は、「のり通り」の道を通ったのである。
 聖が岳というのは、釈空海がこの山で護摩供養を執り行わられた所である。
 その東に「降神谷」というのがある。このあたりに一つの爆(
ママ瀑の写し間違いか)泉がある。空海上人はこの滝で身を浄め、百日の間、護摩供養を御修行し、聖が岳を第一として五所の山の頂きに一石一字の経塚を築かれた。又、不動明王の尊像を爪で彫刻をされた。この所に残されたものは皆の人々が知るところである。
 又、人間天皇四十一代の女帝持統天皇は、初めて伊勢内宮御遷宮の執行があった時、この御座島に行幸し、村の東に仮宮を建て、三ヶ月の間居られたことは日本紀に見えている。その際、島中をお廻りになり、馬の背の山の辺にある池浜と云う所で、色々な美石を拾い初められてから、この里の名物となるのである。
 又、仮宮の跡に八王子の社を移し、里の鎮守とする。その宮ノ前の浜に、さる昔、一つの木の株が流れ寄り、光輝を発することが毎夜あった。里人はこれを軽んじる内、ある夜、白髪の老人と思われる人が村役人の枕上に立たれた。「朕は社宮の神であって、荒々しい神故に老いて遷ってきた。この東宮に祭るなら、里民の旅行を守ろう」と誓われるの見て夢が醒める。
 翌朝、村内へ披露し、五、六人の老人を遣して、かの株を改めてみれば、切小口と思われる所に蓋があり、これをあければ、古びた木像に、大般若経六百軸の文が添えられていた。経は潮音寺へ納めて宝物とし、又、八王子の傍に社を建て、里人はこれを旅神と号して拝参した。
 又、大江の千里がしばらくこの里にいて、浦海、島中の「みる」を美味であると賞玩してから、名物となった。もとこの辺りは、伊勢の国に屈して、源家頼朝公が、十七歳の時、この御座島へ流されていたことは源平盛衰記に見られている。その時の関札が残っていて潮音寺の宝物となっている。
 又、御座源四郎と云う武士はこの里の守護であったが、応仁の頃に播磨で討死したとのこと。今でも御座源四郎の城跡がある。字は城山と云うのである。

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